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運転中です。:西村憲一

車を運転中に携帯電話をいじることはどうやら禁止らしい。
どういう了見で人の行動を束縛するのか。禁止するからには理由があるにちがいない。

言うまでもなく、注意散漫になり、 危険とのこと。運転中に電話をすると内容に気を取られ 運転がおろそかになるという。

それは、意識の問題である。

 

ならば、運転中の哲学はどうなのだ?

どのテーマも一度気になり出すと かなり手強い。

携帯の日常的な会話とは比べものにならないほど意識をうばわれるはずだ。しかも、大抵は答えは出ない。意識散漫な状態がずっとつづくのだ。携帯電話よりも、 運転中の哲学を禁止にすべきではないか。

 

「あなた、いま哲学してましたね?」

こう問いかける時、人は何で哲学しているかを判断するのだろうか?遠くを見つめる眼差しだろうか?それとも、明らかにそれとわかるしかめっ面か?そこには人が哲学する時に見せる明示的表徴はどんな状態かという新たな問いがある。

しかし残念ながら、それはまだ発見されていない。ならば哲学はまだいいとしよう。問題はそれほど逼迫していないだろう。無理に運転中に哲学する必然性もないじゃないか。

 

しかし、最近浮気がばれ、離婚問題を抱えた社会的に地位のある人、の場合はどうだ。これは、気になる。気になるというか目下人生最大のテーマだ。

なぜバレたのか?慰謝料は?会社は?

考え出すと運転どころじゃない。人によっては哲学よりも重い可能性がある。いや、確実に重いと思う。しかし、これも哲学同様に明示的には表に現れない。結局、哲学であろうが、離婚であろうが、失恋であろうが、今夜の食事であろうが、人は気になることは気になるわけだし、それは禁止出来るものではない。

 

ただ、携帯電話というわかりやすい道具を使った時のみ減点されるのだ。思考するがゆえに人であり、それこそが生きている証に違いないと思うのだ。車中では自ら思考する上では自由なのだ。思考する自由はまだ侵されていないが、もし明示的になった場合には、禁止される恐れがある。
そこで世界の発明家たちにお願いしたい。
人生のテーマや日常問題を考えるために便利な道具はどうか発明しないで欲しい。だがコミュニケーションこそが、人の存在理由だと思う方は、いまこそ大いに声をあげてもらいたい。

わたしは思考派だが、コミュニケーションも思考とともに、人を成り立たせる車の両輪の様なものだと思っている。応援するのはやぶさかではない。

[14.05.05]
運転中です。:西村憲一